身内でもないし、親友というわけでもない人間の死について止め処なく言葉が溢れてくるのに、その微妙な距離感から、そして自己について考えたとき何も言えなくなってしまう苦しさからこれを記す。

 

しかし、言葉にして整理をしようとすると全く文章にならない。だから人間はああああとかううううとか言葉にならない声で泣くのかもしれない。

彼女に会ったのは数回しかないが、今でも姿を思い出せるし、何ならその辺に座らせて、ああ存在しているなあと感じることもできる。

それなのに、もう会えないし話すこともできないというのが何だか信じられなかった。

知った当初は涙もでなかった。それが、じわじわと水分が染み出してきて今ではよくわからないつらさを抱えてこれを書いている。

 

これを読んでもどうか怒らずに独り言だと思ってほしい。この文章に誰かを不快にさせる意図はありません。

それでも憤りを感じたならすみません。

 

当初ツイートした通り、何で私より先に死ぬんだ。

普段自分だって死にたがっているのにいざ誰かが死ぬとそう思ってしまう。置いていかないでくれ。

何かできたんじゃないかとか、そういうありきたりなことをどうしても考えてしまう。望んだものであれ、望んでいないものであれ、死ぬときは死ぬと分かっているはずなのに、何かどうにかならなかったのかとかそういうことばかり浮かぶ。

けれども、どうしようもないこともわかってはいるのだ。自分こそ先日耐えきれなくなって黙って首を切ったのだし、それで死んでいたら他の誰かが同じように「何かできたのでは」と感じてしまう可能性はある。

 

人間が死ぬと人間が悲しむというのが分かっていても尚、私は死にたいままだというのも、私は何も言うべきではないと感じさせる一端かもしれない。

 

つい数日前の「ものすごく幸せに死にたい」という私のツイートをふぁぼっていることに気づいたときはああ、と思った。

幸せになれたのだろうか。彼女にとってこの死が、不本意なものでなければいい。

様々な人間がもっと生きてほしかったと思っているだろうけれども、それでも、死が不可逆である以上、この死が救いであったならどれだけよいだろうかと思う。