ひとの狭間

他の人間は一体何を考えて日々を過ごしているのだろう。そういうことばかり考えて生きている。

自我を通して見た世界はどれひとつ同じものはなくて、皆それぞれ別の世界を見ている。

私たちは同じ世界に生きていない。

誰とも共有できないことを私は寂しいと思うけれど、あなたはそれに安心しているだろうか。

さびしさを集めて、言葉を与えることができたなら私の自我を表すことができるだろうか。

 

イシャに「この2週間の間で“悲しい”と思った日がどれだけあったか。一日中悲しいと感じるか」と訊かれて、私は果たして“悲しい”のだろうか?と考える。

毎日、私はどんな気持ちでいるだろう。

何らかの刺激には反応を返す。刺激によっては、悲しさは途切れる。それでも自身の気持ちを振り返ってみたとき無味乾燥な印象を受けるが、この文章のようなウエットな気持ちも確かにあるのだ。

質問に答える私と、悲しさを担当する私はうまくつながっていないように思う。

その概念を伝えるとき、人間は不思議そうな顔をする。ひとは互いの世界を共有できずに、類似の仮想世界を創り上げて、自己が理解できるものへと変換していく。

けれど変換に失敗しているような気がしてならない。

それは類似ではありませんよ。あなたには重要ではないこととして処理されたようですが、ここの青が私には重要なのです。あなたの秋の空のような青ではなく、深い海の、ほんのりと光を通した青なのです。それではもう甚だしく解離してしまっているのです。

そういうふうに、どんどん食い違っていく。

私はそれを“悲しい”と感じるだろう。

目の前に人間がいると、私はオートモードになってしまって後から後から伝えられなかった、変換に失敗した感情があふれてきて、どうしようもなくなる。

けれど、きっと私の正確な気持ちを把握することは求めていないでしょう。

だから私は曖昧な答えを返す。曖昧で、基準に沿った答え。

ご飯が喉を通らないほど悲しいわけではないとか、そういう誰が決めたのかわからない悲しさのイメージとすり合わせて答えていく。

 

孤独なことを悲しいと感じる。

私はこの孤独を解消することは非常に難しくて、ほぼ不可能なのではないかと感じていて、益々つらい。

人間を辞めて神様になりたい。そういうことを祈っている。