どうやって生きればいいかわからない。だから皆死ぬのか?

白く陶器のようになめらかなサナトリウムで静かに暮らしていきたい。

そこは世話係のアンドロイドと私しか存在しない静かな場所だ。

すべての煩わしさと苦痛、人間の負の感情から離された無菌室のような空間で、ただぼんやりと過ごし、本を読む。

気が向いたら文章を書くのもいいだろう。こうやって毎日思い思いに記録するのだ。

そんなことを考えていた。

 

私にとって世界はあまりにも恐ろしいところです。どうして多くの人間たちはこの世界に耐えられるのでしょう。

耐えられない者は皆死んでいくだけなのでしょうか。

私と同じように生活を厭う者でさえ、社会とはそういうものなのだと言って人間をやっている。まるで、私が堪え性のない生き物のようです。

いいえ、傍からみたらそう見えるでしょう。このくらい我慢すべきだと。私ですらそう思います。我慢すべきだと。

けれども、生きることに対して我慢が前提になっていることが怖いのです。

 

社会人をやってみたこともありました。

社会人に擬態して息継ぎに失敗しながらも何とか社会で生きていると、ある日突然だめになる。

積極的に死にたいわけではないけれど、自身を救うにはもう死ぬしかないのではないか、と暗鬱な表情になってしまう。

 

 

どうやって生きればいいかわからない。だから皆死ぬのか?

白く陶器のようになめらかなサナトリウムで静かに暮らしていきたい。

そこは世話係のアンドロイドと私しか存在しない静かな場所だ。

すべての煩わしさと苦痛、人間の負の感情から離された無菌室のような空間で、ただぼんやりと過ごし、本を読む。

気が向いたら文章を書くのもいいだろう。こうやって毎日思い思いに記録するのだ。

そんなことを考えていた。

 

私にとって世界はあまりにも恐ろしいところです。どうして多くの人間たちはこの世界に耐えられるのでしょう。

耐えられない者は皆死んでいくだけなのでしょうか。

私と同じように生活を厭う者でさえ、社会とはそういうものなのだと言って人間をやっている。まるで、私が堪え性のない生き物のようです。

いいえ、傍からみたらそう見えるでしょう。このくらい我慢すべきだと。私ですらそう思います。我慢すべきだと。

けれども、生きることに対して我慢が前提になっていることが怖いのです。

 

社会人をやってみたこともありました。

社会人に擬態して息継ぎに失敗しながらも何とか社会で生きていると、ある日突然だめになる。

積極的に死にたいわけではないけれど、自身を救うにはもう死ぬしかないのではないか、と暗鬱な表情になってしまう。

 

 

深夜1時

さみしい、さみしい。

私はこうしてさみしさを抱えて大人になれないまま生きていくのだと思った。それならばいっそ死んでしまいたいとも。

自立を求められるのが苦手だと気づいた。ひとりでこの世界を歩いていくにはあまりにも心もとない。

果たしてうまく子供時代を消化できなかった者はどうやって大人になっていくのだろうか。

成長痛というものを覚えているだろうか。

時には眠れなくなるほど痛む、あの一過性のものである。

大人にも、子供にもなれない狭間で、成長痛に苦しめられている。父や母的な存在にすべてを委ねることもできず、かといって大人にもなりきれずに出来損なったままつらさを感じている。

眠れない夜

眠れなくて鬱々とし、様々なことを考えてしまってさらに眠れなくなる悪循環に陥っている。

昔の劣悪な家庭環境や、時折訪れる破壊衝動のこと、自身がとても薄ぺらな人間に感じられてしまうこと。どれもTwitterに書くのはなあ……という気がして、しかしそれでも吐き出したくて文章にする。

本当は今日は救いを得られるはずだったのに、どうしてこんなにもつらいのだろう。

時折くすぶる破壊衝動は一体何のためにあるのか。理性のあるネコなので破壊衝動は自身へと向けるのです。けれど、いまはちょっとマズい。

こんな感情を抱く度に、ああ自分は出来損ないなのだと思う。どこかで歪んでしまったのだ。

けれども本当だろうか?歪んでいるのは周りの方ではないか?とも思うのだ。この気持ちはもう何度も書いたことかもしれない。

自身を正しいと思いこんでいる人間ほど恐ろしいものはない。

 

満たされない欲求というものはつらい。ただただ苦しみを募らせていくばかりである。

食欲を満たすためには、ごはんを食べる。ではこの欲を満たすためには?

最大容量の覚書

精神の表皮をぴりりと剥いていないと、自分は文章が書けないのではないか、とふと思った。

精神衰弱のその先、脳がぼんやりとして言葉ばかりが脳に揺蕩っているそのときだけ何かが書けるのではと。

しかし、このブログは脳内書き出しが主になってきているが前ブログでは日記的な意味合いの方が強かったのだ。精神衰弱の文章を好ましく思ってしまうのは、読み返したときの新鮮からくるものかもしれない。

もっと、日常を書き出していかねばならない。その気力を何とか維持していかなければ、と病院の待合室でぼんやり考えていた。

手元の本に視線を落とす。

詩人の歴史がそこには記されている。同人誌を発行したことについて読み、私も死ぬ前に同人誌を残したいとほんのり思う。

 

少し前と違い、最近は調子がよくなくて眠ってばかりいる。夢を見ては、それを創作に落とし込みたいと願うだけで何もしないまま、また睡魔に身を任せていく日々を送っている。

このまま調子がよくないままだったらどうしようかという不安が募っていく。せめても、なけなしの積極性だけは失ってはいけないと、こうして文を打ってみたり、絵を描いては投げ出してみたり、もちろん誘われたら外出だってする。けれども私はそれ以上のものが欲しいのです。

 

今日の脳内を、薬で曖昧になったあとの体験を少しでも残しておこうと決めて脳を追った。

目を閉じると視界は真っ白になった。紙のような白さではない。天上の陽を孕んだ光の色。
私はそれを見て、いつも神様だとかそういうものを想像する。
宝石の国』の“月人”あのようなものを想像してみたこともある。
いくらか時間が経過すると、視界は濃く濃く色を得る。赤紫に黒い染みを垂らすように、万華鏡をくるくると回すように視界は様々な紋様を捉え、生み出し、消し、見る。
それを眺めるのが好きだった。目を開けてしまって台無しにしないように、時折眼球をごろごろさせて目を閉じていることを意識する。
 
やがてそこには、寺のイメージがあった。
黒っぽい木の柱。私はそれに背を預けている。
現実の私が、壁に背を預けているからだろう。冷静な部分が、そう分析する。
鮮やかで深い緑色の木々。広く密やかな空間に夏の気配が満ちている。
穏やかな気持ちだった。
おもしろい、この脳は仏教徒の脳なのだ。これが脳に染み付いた原体験なのだ。
もしもうまく瞑想できたなら、このような心地でいられるのだろうか?それはとても羨ましいことだった。
 
救いはそこにあるのか?自我が問うても答えはなく、ただただ安心が続くだけ。
ああ、こんな気持ちになるなら田舎に帰って柱に背を預けて、目を閉じようか。けれども現実はそうじゃないのだと知っていて落胆する。
 
そういえば、祖母がお遍路さんになりたいと言っていなかったか。祖母は結局なれないまま死んでしまった。それは積極的ななりたさなのか、消極的ななりたさなのか、どっちだっただろう。もしも積極的に願っていたのなら私が代わりになれたらと思った。野道を歩き、外で眠る自身に思いを馳せる。
女の肉体は不要だと気づいた。この肉体はただただ面倒を生むだけで……男ならいいのか?ああ、肉体は不要なのだ。そういうことだったのだ。
しがらみから逃れるには、まず肉体から逃れる必要があったのですね。
なんだ、そんなこと皆言っていたじゃないか。最初からわかっていることだったのだ。
視界は様々な染みを生み出し、私は寺から離れていく。
 
目を開けると現実があった。
どこか嘘っぽい、けれども確実に脳が現実だと認識している景色。白い天井。少し顔を動かすと白衣の人間がいる。
 
私はまた目を閉じた。
誰かの話し声が脳に入力され、それらは新たなイメージを生み出す。
私は誰もいないシアターに立っていた。あの滑らかな手触りの赤い椅子が、薄暗い空間に規則正しく整列している。
スクリーンには何も映し出されていないが、頭上で映写機の青白い光がぼんやりと灯っていた。
私はそこで静かに会話を聞いていた。もうしばらくすると脳が完全に微睡から覚めてしまってこの妄想の中から追い出されてしまう気配を感じながら言葉に耳を傾けていた。
会話の終了と一緒に赤い椅子が、ぶわりと空に舞う。舞う瞬間から羽根になって消えていくのだ。
それに伴って、私も目を開けた。

 

鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす……蛍は何故光る?

光。光だよ、光。生物はあんまり光らないよ。嘘。クラゲも光るよ。でもさあ、ねえ。

水の中にいる生き物は別というか……何で別って思うんだろう?人間は水の中で暮らせないから?だから別世界なの?

ホタルのお尻に近い部分に、黄色くみえる"発光器"というものがあります。その中には"ルシフェリン"という発光する物質と、発光するのを助ける"ルシフェラーゼ"という酵素があります。この2つの物質と体の中の酸素が反応して光を出します。

 蛍の見た目は虫虫しているな。

理科の教科書(小学生用)とかに蛍が光る仕組み書いてそう。いや、書いてなかったか?こうして記憶は捏造されていくのだ。

光。光。光は特別だよ。ねえ、光は特別なんだ、そうだろう?

 

昔、小学生とか、それより前くらい昔。

誕生日に、生まれてから数回しかあっていないような実父と、そして母親と蛍を見に行った思い出がある。来年の誕生日も、蛍を見に連れていってくれるようにお願いした。それは叶わなかった。

ペットボトルに入れて持ち帰った蛍はほどなくして死んだ。

調べてみると、蛍が飛んでいる時期と私の誕生日はギリギリ重なりそうで重ならない。最近知った。

地域差とかそういうのを考えると何とか見られるかもしれない、という具合だ。

この記憶は本物だろうか?

孤独と憂鬱の主

すっかりだめになってしまいました。だめになってしまったときは文章を書くに限ります。

絵は描けないのです。ペンを持たなくてはなりません。

本当は、絵も描けるのかもしれません。試みてないのでわからないのです。けれど、精神がニャオのときほどボツにしてしまうことが多いのも事実です。

ああ、つらい。つらくて、眠ってやり過ごすことばかり考えています。

効果がいつまで続くかということを知るために私は薬を絶たれ、絶望に少しずつ身を浸していくのです。

脳次第でどうしてこうもつらくなるのか。脳よ、脳。お前はどうして私をつらくさせる?つらくさせて何を訴えている?

私にはお前が理解できない。お前は私を理解しているだろうか。相互不理解のもと不幸を生んでいるのだろうか。

自我の主はお前なのか?

ひょっとして孤独と憂鬱を愛しているのか?

それならば孤独と憂鬱を愛せずにのたうち回る私は何者だろうか。